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感想と思考
アンダーグラウンドな世界から、水面へと、地上へと顔を出すこと。
ある種の膜のなかでのみ紡がれる「繋がり」からほんの少し距離をおき、「さらなる傷を負う可能性だっておおいにある」という恐怖感をもはらむ感情すらも片隅にはおきながら、それでも「しらふ」の状態でこそつながることのできる人たちの存在する世界へ足を踏み入れようとしてみること。
本映画『おくびょう鳥が歌うほうへ(原題: the outrun)』では主人公・ロナの抱える数々の困難さにおいて、先に書いたような recovery ・ heal がすすむ過程が見事なほどに鮮烈に、実感を伴って描かれている。
冒頭で語られる、特徴的な寓話がある。「夜が明けるまでに海中へと戻ることのできなかったアザラシは、捕まり断絶されてしまう」ーーけれども語りにはまだ続きがある。「なぜならこのアザラシたちは、海面よりも上の世界では幸せになることができないから」。果たして本当にそうなのだろうか?
Metaphor runs like blood through the veins of this story. Early on, we’re introduced to the myth of the selkies—seal people who come ashore at night, shedding their skins to dance in human form. But if they don’t return to the sea by morning, they’re trapped—disconnected, forever yearning, dissatisfied with their fate. It’s a chillingly apt allegory for addiction and alienation: the lost rhythm of life, the danger of staying too long in the wrong shape.
Blog | Recovery Movie Meetups
addiction の問題においてとくに渦中にいたころのロナは、「ひととうまく繋がることができない、あるいはどこか怖い」「けれどもどうにかして糸端をつかみたい」という相反する感情を胸の内に抱いているように私にはみえた。通りで出会った、たばこ用のライターを手で囲ってくれた青年にむける表情と言動。恋人のデイニンに泣きつきながら頭を下げ、なんとかしてこの関係を絶たぬことができるようにと必死に縋りつくそのようす。
「『しらふ』の距離感」でひとと関わること・関係を維持することが過去の傷つき体験などによって非常に苦手であり「恐怖の対象」となっているロナにとって、それでもどうにか「ひととの繋がり」を(たとえそれはやはり見せかけのもの、ではあったのだとしても)曲がりなりにも維持するためのひとつの手となってくれていた「アルコール」。だからこそそれを手放す作業は痛みや苦しみ、あるいはもはや名づけることなどすらできない重い、重い感情をもともなう時間となっていたのではないだろうか。
私もある意味、(私の対象物はアルコールではないのだけれど) 片足を突っ込んでいる(た)部分はある。そのような意味でもだから、物語の後半でロナが「しらふ」の状態で、ウズラクイナーーおくびょう鳥を探すにあたって島の人々らに協力を仰いでまわる場面には、どこか励まされるものがあった。
あるいは終盤のシーンにて、ロナの叫びとアザラシの鳴き声とが呼応する際のようすからはまた、ロナが「他者とのつながり」「自分自身の身体は、この世界・大地をちゃんと踏みしめているし接続しているのだという感覚」をとりもどしている最中にあるのだなという感覚をはっきりと受け取った。深い感動すらもおぼえた。
「回復することは、その途上をたどることは・たどろうとすることは、可能である」。物語をとおしてこの映画は、私にそう再び気づかせてくれた。
もちろんその道筋には終わりなどないだろう。今後も「やめ続ける」ためには witness となってくれる隣人、そして温度感のある人間関係を地道に築いてゆくということが不可欠なことは言うまでもない。難しいことだけれど、ときには「怖い」と思ってしまうことでもあるけれど……。それでも。
海面に顔を出してみる勇気をほんのちょっぴり持ち始めることができたとき、ひとはすでに「回復」への道を歩み始めているのだろうな、と。私はいま、あらためてその思いを噛みしめている。
