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感想と思考
・あんなに苦しい扱いをうけていたジェナの姿も、イタリアやパリに降り立った途端なんの違和感もなくその場に存在することができていた、むしろ輝いているようにも見えた
→ 輝くことのできる場所はどこかに必ずあるのだということ、それを(戦禍であっても)忘れずにいたいということ(難しいことではあるけれど)
・ジェナは最終的に運良くパリへ亡命することができたけど、きっと周りにはそこまで辿り着くことのできなかった人たち / 弾圧に負けて途中で命を落としまった人たち / 今はまだ声をあげられない人たち、などだって大勢いるのだと私は思う
→ 「こんな世界もある、こんな人間たちがいる場所もある(例えばパリのように)」と気づくことのできる場所まで到達できる人たちはほんの一握りであるはずだから、辿りつけたのであればその人たちは(いまだ現場にいる)いうなれば「弱い立場の人たち」に、「こんな世界も本当はあるよ」「こんな人間もいるよ」とどうにかして伝えていくということへの使命があるのではないかな、と思った
(もちろん「この先どうするのか」ということを選ぶのは本人自身だし、だから仮に「伝えない」という選択をとったとしてその人が責められたりする筋合いなどもないとは思うけれど)
・「見たくない」と思ってしまうような現実もたくさんある、だけどそれもひっくるめてやっぱり(フィクションではなくて)現実なのだろうな……、ということ
→ 全ての人が全てのものごとを目に焼き付けること……はもちろんしなくてよいと私は思うけれど(「見たくない」と思うこともそれはその人の気持ちだから)、だけれどもやっぱり「目を向ける人」が完全にいなくなってしまうと問題そのものもいずれは「なかったこと」にされてしまうかもしれないのだろうな、と思った。ジェナの格好にはだからたんに「ジェンダー観による装いの好み」を認めてほしいという意味のみがあるのではなくて、「男性性」がもついろいろな社会的な意味であったりその戦争に対する姿勢であったりへの抗い、そして強烈なインパクトを与えることで(興味本位から……であったとしても)関心をむけてほしい、という思いなどが込められているのではないかな、と私は思った。
・「異端なのだ」と周囲からもそして自身からも烙印を押され否定され続けてしまうのか、それともふたたび歩むことができるのか、それを分けるものは結局はは先人たちがどこまで道を整えてくれてきたのかの裏返しでもあるのかもしれない(と、私は感じた)。
・「唯一の家族である祖父母からの無理解」が描かれていたいくつかの場面は、私はすごくやるせない気持ちになった。祖父母の存在そのものを傷つけたいという思いがあるのではない(はずだ)し、祖父母たちにとってもジェナは大切な孫で、ジェナのすべてを責めたいという気があるわけではないのだろうな、とも。
でも(だからこそ)、認めてほしい・理解してほしいのにしてもらうことのできないつらさがジェナには降りかかっていたのではないだろうか……、と。
・「ジェナが受けてきた痛み、そしてジェナにとっての自身(のような立場をとる人たち)に向けられる目」、それらの奇抜さであり鋭さであり……をまとう姿に映しているという見方もまた、とることができる。
内面・心というのは目に見えるものではないけれど、それを少しでも可視化できるものに変えて「気付いてほしい」と周囲へ訴えかけているのかもしれない。
どれだけ怖くても生き方がわからなくても、子供や自分を守るために被害を相談窓口に訴えて逃げた人というのはものすごい強さを持った人なのだ、と改めて思う。
『傷の声――絡まった糸をほどこうとした人の物語』齋藤塔子 (著), 医学書院, 2024年11月15日
