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『娘が母を殺すには?』
三宅香帆 (著), 株式会社PLANETS / 第二次惑星開発委員会, 2024年5月15日
気になった箇所の引用
厩戸は、毛人を他者として見ず、自分の一部のように愛そうとする。しかし、自分と他者を分離せずに愛そうとする様子には、まるで母が娘を支配するときに差し向けるような暴力性が宿っている。「あなたとだけいられればいい」という厩戸の愛情は、半ば毛人を縛る暴力なのだ。そして毛人は、「そのような愛は、成熟した大人同士の自立した関係ではない」と説く。自他の境界がつけられていない厩戸に、「あなたの母の代替になるつもりはない」「あなたは他者とかかわるべきだ」と。
P. 72
夫の逃走、娘によるケア
『凪のお暇』10巻にて注目すべきは、凪の父である武が失踪したことにスポットライトが当たっている点だ。
P. 148~150
つまり、母娘問題の根幹は――夫の逃走にある、と『凪のお暇』は告げている。
凪の母は、祖母との間に禍根があり、東京に出ていった過去を持っていた。そのとき、自分を心配して愛してくれる武と出会い、結婚しようとする。だが、妊娠を知った武は失踪し、凪の母はひとりで北海道に戻り、娘を育てた。
そしていま、凪の母は娘を見て気づくのだった。
「自分は夫にぶつけるべき感情を、娘にぶつけてしまっていた」のだと。
夫婦間で互いをケアし合う役割から夫が逃走し、結果的に、娘が母のケアを担当することになる。『凪のお暇』が描いているのは、このような構造だ。
(中略)
夫が不在の家庭では、娘が母のケアをする役割を補ってしまう。たしかに、母と娘は同性同士で話が合うことも多いだろうし、娘は母を心配してくれるだろう。仕事ばかりしていて、家のことが何もわからない夫と話をするよりも、同性の娘と話をしたほうが楽しいと感じる母がたくさんいるのは理解できる。
だが、娘に母の精神的なケアを押し付ければ、娘の負担が大きくなってしまう。
『凪のお暇』において、凪は母に対して幾度も「大丈夫?」と心配そうに尋ねる。まるで、自身もまた子どもをケアする「母」であるかのように。しかしそれは本来、娘に押し付けられるべき役割ではない。
弱い母は、娘にケアを求める。だが、その原因をつくったのは、逃走した夫だった。
『凪のお暇』において、東京で「逃げる」武の姿は、北海道から「逃げられない」母と凪とは対比的である。ここには明確なジェンダー差がある。女性に自己犠牲的なケアを求める日本社会は、夫が家庭から逃走することを許し、女性が母になることを美化して語る[2]。
父・母・娘(・息子)という過程において父が不在になれば、母と子の密室が生まれてしまう。息子はその密室から「マザコン」という批判をもって脱出することができても[3]、娘はその密室から脱出する術を持たない。しかし娘も、母との密室から脱出しなくては、いつまでも「それは母が赦さない」と唱え続けることになる[4]。
たとえば、「イグアナの娘」の例を考えてみよう。
P. 176~177
「イグアナの娘」において、リカが「母殺し」をしたタイミングはどこだっただろう。それは母の規範を(イグアナの夢によって)理解し、自分の結婚や出産を受け入れたタイミングだったのではないか。「自分はイグアナだから」といろんなものを諦めていたリカは、母が死んではじめて「イグアナ」という規範よりも結婚や出産という自分の欲望を優先させることができた。
つまり、母の規範よりも、自分の欲望を優先させることで、リカは「母殺し」を達成する。
社会はさまざまな規範に満ちている。たとえばリカに「美人なんだから早く結婚しないといけない」という規範を押し付けようとした男性もいたかもしれないし、あるいは「成績がいいんだから、進学したほうがいい」という規範を与えようとした先生もいたかもしれない。しかしリカは、そのような規範を意識せず、母の与えた規範のみを、絶対的な規範とした。さまざまな社会的規範の網のなかで、私たちは生きているが、母娘の密室のなかにいる娘は、母の規範だけを絶対視してしまうのだ。そして娘は、そのような「母の規範を絶対視する世界」から、抜け出す必要がある。
母の規範を絶対視しなくなることで、娘は母の規範に反する欲望を叶えられるようになる。つまり、「母に許されない」ことも選択できるようになる。だとすれば、「母殺し」の達成条件は、このように表現することができるのではないか。
「母の規範を相対化し、自分の欲望を優先すること」だと。
だとすれば、「母殺し」に必要なのは、母と娘の二項対立の世界から、母娘以外にも誰かが存在している世界に移行することだ。
P. 177~178
前章で見たように父不在の家庭においては、母娘密着が起こりやすい。そして、母娘の二項対立の世界にいる限り、娘は母から離れることは困難である。そのとき重要になってくるのが、母娘の間の、第三者の存在だ。
ちなみに、絶対的な二項対立で人間を捉えることをやめ、複雑な関係性を取り戻そうという概念を、哲学の世界では「脱構築」と呼んだ[1]。私は母娘の関係においても、脱構築を目指すべきだと考えている。
では母娘の規範の世界において、第三者を登場させるためには何が必要か?
それは、娘の欲望である。
「母殺し」とは、母の規範よりも自分の欲望を優先させることである。そう考えると、母娘の規範の世界に、娘が欲望する第三者を連れてくることの重要性が理解できるだろう。母娘のなかだけで母娘関係を解決しようとすると、がんじがらめになってしまう。そうではなく、むしろ母娘関係が外に開かれる――母娘の間にはいなかった第三者を、娘が引き込むことが必要なのだ。そのためには、娘の欲望を重視することが大切になる。
「母」だって、母娘の密室に留まり続けることに、葛藤している。
P. 202
そのため、母娘関係には、とにかく他者を登場させることが重要である。
娘の場合は、自分の欲望に従って母以外の外部の他者と出会い、母の規範を相対化することが必要になる。母の場合は、娘以外の大切な他者――幸福を願うことのできる他者――が必要になるのだろう。そうした他者があることで、娘の幸福を自分の幸福に直結させすぎずに済む、つまり、母と娘との自他境界ができる。
母と娘が、お互いを唯一無二にしないこと。母と娘が、お互い以外に欲望を向けること。それが母娘の密室を脱出する方法なのである。
母の規範よりも、自分の欲望を優先していい。その感覚を定着させることこそが、「母殺し」の達成なのである。
P. 205
「母殺し」ができていない状態とは、常に母の規範を気にしてしまう、つまり「母が許すかどうか」を考えてしまう状態のことだ。だとすれば、母の規範を気にせず自分の欲望を優先できるようになることこそが、「母殺し」の達成である。母に「わがまま」と言われそうなことを、娘ができるようになれば、それは「母殺し」の完了を意味する。
最後に、「母殺し」の具体的なプロセスを、改めて提示しておきたい。
P. 215
まずは、「母が嫌がりそうだな」と思うことを、なんでもいいからひとつやってみる。あえて母の規範に反してみるのである。高い外食をするとか、昼夜逆転するとか、服を選んでみるとか、なんでもいい。そしてその過程で、自分が母に与えられた「こういう行動をしてほしい」「こういうことを望んでほしい」「こういうふうになるべきだ」という規範の存在に気づくことができたら、それを言語化することが重要だ。言語化することは、客観的に見ることでもある。自分は母によってどのような規範が与えられ、そしてそれを自分はどのように内面化しているのか? そうした言語化プロセスを繰り返すことによって、母の規範よりも自分の欲望を優先する癖をつける。
〈母殺しのプロセス〉
① 母の規範の存在に気づき、言語化する
② 母の規範よりも自分の欲望を優先したという成功体験をつくる
③ ①②を繰り返す
④ 母の規範がどうでもよくなる=母の規範を手放すちなみにこのようなプロセスを提示すると、欲望できるようなモノやコトとの出会いは偶然で、意図的に生み出せるものではない、という批判があるかもしれない。たしかに、自分の欲望を引き起こすヒトやモノを見つけることそれ自体、慣れていないと難しい。しかし、私はそれでも他者と「出会おうとする行為」そのものが重要だと思っている。
P. 217~218
欲望は、他者に触れているうちに生まれる。逆に言えば、「こういうものが好きだ」「こういうことをやってみたい」「こういう人と話してみたい」という欲望は、外に出てさまざまな他者に触れないと生まれない。出会う他者が多ければ多いほど、自分の欲望に気づく機会は増える。大切なのは、自分の欲望をバカにしないことだ。「こんなものにハマるなんて恥ずかしい」とか、「いまさら友達になるなんて無理」だとか、そういった自分の欲望を卑下する行為をしないこと。それが何より大切だ。
最後に個人的な話をすると、私が原稿を執筆するなかで印象的だったのは――意外にも、「そうか、本や漫画を読むことが、私にとっての『母殺し』の方法だったのか」と気づいたことでした。
P. 221
あくまで私の場合、ではあるものの、親以上に大きな価値観を与えてくれる存在が本や漫画のなかにあったこと。そして、たくさんの理解を本や漫画に与えてもらったこと。それらは私の人生にとって、とても大きな出来事だったのです。
ですから、私にとっての「母殺し」の方法は、本や漫画を読むことでした。
欲望は人生において大切です。欲望しないと、人は外に出よう、なんて思わない。だからこそ「娘」である皆さんには、もっともっと自分の欲望を大切にしてほしい。それは、自分を大切にするということでもあると思います。母の欲望と、自分の欲望は、違うものです。
P. 222
私の場合は、「本を読みたい」という欲望が私を外に連れ出してくれました。
あなたの場合は何でしょう。「母の規範を捨てたい」と思えるほどの大きな衝撃にあなたが出会えることを、私は祈っています。あなたはもう、「母」から解放されていいんです。
感想と思考
「(心理的な意味での)母を殺す」ということ。そうすることに対して優しく、そっと背中を押してくれるような……そんな1冊だった。そして読んでいる途中にふと、私の脳裏をよぎったとある「ブログ記事(過去に読んでいたもの)」があったりもした。書かれる文章やものごとのとらえ方・考え方、言葉選び、学びへの向きあい方……などなど個人的にとても好きで私の憧れのおとなのひとで、ひそかに私淑(!)している方……、みおりんさんのものなのだけれど(そしてこの記事が書かれたときからもう7年も経つのだなということが、未だにほんとうに信じられないのだけれど。時の流れというもの、なんともはやすぎる……)。
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幼いころの子は親(とくに本書だと母・娘の関係に焦点があてられている)の規範を絶対視し「家庭」という密室の中で限定された価値観のもと育つことが多い。けれどやっぱり娘はどこかで「母を殺す(=親を相対化する)」ことをしなくてはならない・したほうがよい。先のみおりんさんのブログ内でも、このように綴られている部分がある。少し長いけれど、引用します。
小さい頃は、無条件に無意識に、「親が絶対の存在だ」と誰もが思うと思います。べつに親が権力をふりかざしているっていうことじゃなくて、子どもは親の言っていること・やっていることは無条件に正しいと考えるという意味です。
おとなになってからも、やっぱり無意識に「親は正しい」と思い込もうとするんだと思う。だって育ててくれたのは親だし、その親を「間違っている」と思うのは難しい。自分を否定することにもなる気がして。
でも、やっぱり、親は絶対的なものではなかった。
親だってだめなところがあるし、わたしにしてみれば「非常識な」瞬間があるし、言っていることとやっていることが違うことがある。親よりも周りの他人のほうが正しいなと思うときだってある。
わたしはいわば、親を相対化していくという段階にいるのだと思います。「相対化」という考え方は、この間弟から学びました。
そうやってわたしはおとなになっていくのかな。
そしていつか、子どもを持って、子どもにとって絶対的な存在となって、やがて相対化されていくのかな。
親を相対化するということ | 東大みおりんのわーいわーい喫茶
私が育った家庭というのは、すこし(ではないのかもしれないけれど)困難さをつねに抱えていた場所だった。けれどもちいさな私、まだ自分の力で居場所を切り開く力をじゅうぶんにもつことのなかったころの私にとっては当然のごとく、「その中にいる大人たち」が私の全世界であり想像しうる私の将来像のすべてであり、思い描くことのできる未来の限界だった。だからかな、心のどこかでは私はつねに「大人になんてなりたくない」と思っていたし、希望なんてとてもじゃないけれど見出せなかった。でもね。
さいきん少しずつわたしは(やっと)、「大人になりたい」「出会ってくれたあんなひとこんなひと、あの方のようになってみたい」と思うことができるようになり始めつつある(かもしれないな、と思う)。もちろん今の私はまだ、完全に「親に頼らずに」立つことができているわけではない。「社会に頼ってもいい、助けてほしいと言っていい、むしろ頼れるようになってほしい、SOSを出せるように私はなってほしいしなっていい。だけれども親の力だけは借りずに生きられるようになろう」という言葉はとあるひとからかけていただいたもの……であるのだけれど(そしてこの内容にはわたしも「そうだよね」と思ったりもしている)、今ここ、現在にいる私はまだその段階にまでは辿り着けてはいない。未来の自分がどこまでのことをやってのけられるようになるのかも今の私にはまるっきり見当がつかないし、どこまでの力(いろいろな意味で)が自身のなかに備わってくれているのかも、私にはまだ、わからない。
だけれども、それでもやはり私は「母を殺す」ということ……を少しずつできるようになりたい。し、意識的に実践することのできる自分にもなりたい。自分の世界に「第三者(「母」のものとは異なる規範をもっている人)」を登場させること、そして母以外の外部の他者と出会おうとすることで「母が許すかどうか」ではなく自分自身の欲望・存在を優先して生きられるようになろうとすること。それこそが成熟 (mature) するにあたっての軌跡をたどることであり「大人になる」ということであり、確固たる私として存在することができるようになるための第一歩なのではないかな、とこの本を読み終えた今の私……は思っていたりする。
読書会。楽しみです、とても。;)
これからももっともっといろいろな、さまざまな立場の方たちのもとへ、きっと会いにいきたいな。

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