DV関連本(2026年5月に読んだもの)の読書記録 + 個人的なこと(日記)

DV関連本(2026年5月に読んだもの)の読書記録 + 個人的なこと(日記)


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読んだ本

  • 1冊目:『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中日記』船戸優里 著, 小学館, 2020年2月12日
  • 2冊目:『トラウマにふれる 心的外傷の身体論的転回』宮地尚子 著, 金剛出版, 2021年9月20日
  • 3冊目:『DVにさらされる子どもたち 新訳版 親としての加害者が家族機能に及ぼす影響』ランディ・バンクロフト;ジェイ・G・シルバーマン 著, 幾島幸子 訳, 金剛出版, 2004年7月15日

気になった箇所の引用

1冊目:『結愛へ』

昼前に家を出て夕方4時には帰るようにする。家でずっと怒られているよりかは、こっちの方がまだましだ。家に帰る時間が近づいてくると、私は不安と焦りから結愛(ゆあ)に怒ってしまう。「パパにこう聞かれたらこう答えなさい」と声を荒らげてしまう。
 帰り道、運転しながら必死に叫ぶ。後部座席に座っている結愛を振り返りながら、大声で「わかった?」と叫ぶ。結愛の顔が引きつっている。私は完全に正気を失っていた。部活の時だってあんな大声を出したことがないくらいの大声。自分の声の震動で、おでこから後頭部、お腹のあたりまでカッとなって揺れているのを感じる。結愛からすれば、私が狂ったかと思うくらい異様だっただろう。
 あのとき事故に遭って自分だけ死んでいたらよかったのに、と今でも思う。当時は家庭生活に展望が抱けず、10月頃には自殺も考えるほど精神状態が悪化していた。

pp. 69~70

 私の大切な人は深く深く傷ついた。だから私も深く深く傷つきたい。自己満足だとはわかってる。「傷つかないこと」は私にとって「傷つくこと」。体を傷つけると心が癒やされる。体と心を傷つけるには「死」しかない。でも死ぬことが「楽」ということも知っている。

pp. 142

 先生に話そうと思ったきっかけは、もうどうにでもなれという、なげやりの気持ちからだった。でも先生に本音が言えて先生との距離が一気にぐっと縮まって少し肩の荷が下りた。
「あなたの荷物は一人で持つには重すぎる。あなたの悲しみや辛さという荷物を私にも持たせて。私は非力だけど、こういう荷物なら持つのは得意なの」と、さらっと笑いながら本気で訴えてくるこの先生にはなんでも話していいんだと、心の鍵はほとんど勝手に外れた。こんな人と出会えたのは初めてだと思った。

pp. 148~149

 生きて償うことを、結愛はどう思う?
 私は自分の命よりも結愛の命の方が、比べものにならないくらいに私にとっては大切だと思っている。だから結愛にこんなひどいことして、本当にどうしていいかわからない。
 結愛、私の心の中で生きるのは嫌かな? 私には死ぬことと生きること、どっちを選べばいいのかわからなくなってる。どっちを選んでも間違いだと思うから。
 だったら、自分勝手かもしれないけど、私は結愛と二人で一人になって、生きていきたい、と思うようになってきた。体は私でも心は結愛だよ。結愛の魂が私の体の中で生きていて、結愛が言いたいことを私の体を通じて言うの。そんなことできないかな。そんなこと私ができると思っちゃいけないのかな。
 私が死ねば、結愛のことを一番覚えている人が死んでしまって、今度こそ本当の本当に結愛を殺すことになってしまう。結愛が生き続ける最後のチャンスを私がつぶすことになる。この考えも間違っているのかな?

pp. 161

 医療センターから香川児相への経過報告(17年10月3日)には「父の支配下から抜けられない様子。それでも、母は父と別れることを考えるなど、父の支配下から抜けようとする兆(きざ)しも見られる」とあった。
 私はこれを見た時、私が支配されていると知っていたのならなぜ教えてくれなかったのか、悔しい気持ちになった。
 支配されている時は支配されていることはわかんないよ。それを私に指摘してくれなかったのも、結局「母のため」ということだろうか。
 病院も児相も私が支配されていたことを共有していたのだ。だから裁判でのあの人たちの発言には驚かされるばかりだった。
 離婚の話を持ちだしたのも私だ。それより前にも後にも、離婚に対しての後押しやアドバイスをもらったことすらないと思う。支配されている人が自分一人の力で簡単にどうにかできる問題ではない。第三者の手がないとどうにもならない。
 私は、刑事と弁護士と精神科の先生に言われてやっと気づいた。離婚したいのにできない本当の理由が私にはわかっていなかった。それは支配の構造だ。私はあの人に支配されていたのだろう。

pp. 189~190

 私は、まだ全部のことを思い出せていない。それが本当に恐怖。何か記憶が飛んでる。あんなにいつも毎日結愛といたはずなのに、その時の結愛の顔も、何を言ったのかが飛び飛び。でも私は絶対に暴行してない。
 だから170か所の傷は全部彼がやったんだよ。そのうちほんの一部だけ話して、後は忘れたなんてひどすぎる。
 余計なことを言わなかったもの勝ちか。そんなの私は絶対許さない。

 結愛にしつけなんて必要なかったんだと思う。本当にしつけが必要だったのは私たち親だ。結愛は(子供は)賢いから、親のしていることを見て覚えて自然に同じことをしているだけ。親がちゃんと挨拶とか当たり前にしていたら厳しく教える必要なんてなかった。
 結愛に「嘘をつかない、適当なことを言わない」と言ったって、私たちができていなかった。自分たちができていないのに子供にやらせるなんて無理に決まっている。それを暴力暴言を使い、脅したり恐怖で言うことを聞かせるなんてありえないことだ。
 私も結愛も「相手の気持ち、俺の気持ちを考えろ」と言われ、必死に考えた。でも一番相手の気持ちを考えていなかったのはあの人だ。  
 あの人は「自分が失敗した経験と辛さを結愛に味わってほしくない。自分の知っているすべてを教えて幸せにしてあげるんだ」と言っていた。
 あの人も自分に自信がなかったんだろうか。
 弱い自分を受け入れるのが怖かったのだろうか。  
 いつまでそうやって逃げるつもりなの? あなたはまた同じことを繰り返すよ。今度はターゲットをかえて。自分よりもさらに弱い者を見つけて。  
 私は彼のことも自分のことも一生許さない。

pp. 221~222

 一方優里も、結愛ちゃんが一時保護所に連れて行かれることを知り、自分も連れていってほしいと頼んだ。暗がりの警察車両の中で女性警察官は優里の顔だけを見たという。そして、アザや傷がなければ、DVではないと説明した。つまり優里に関しては「被害なし」と判断された。
 警察と連携した児童相談所の担当者も、市の女性相談の担当者に話を繋げたものの、ここでも優里にアザのあるなしが、DVの有無の判断の根拠となった。つまり、行政側には精神的DVに関する適切な知識がなかったのだ。

pp. 232

 一般にドメスティックバイオレンスという言葉で想像される、叩く、殴る、などの身体的虐待は輪の外周に存在する現れの一部にすぎず、ドメスティックバイオレンスの本質は、その中心にあるパワーとコントロール(権力と支配)であるということが表現されている。

pp. 巻末資料2

 雄大氏の言うしつけ行為自体が、表面的に「子どもや妻の今後のため」という正当化を背景にした男性の特権意識に基づいた加虐的な暴言(そして裏での暴行)であり、DVと児童虐待が表裏一体でセットになったものともいえる。優里さんは、そういう状況のなかで、一層無力化されていった。

pp. 巻末資料4

2冊目:『トラウマにふれる』

 本章では、このことをより明確に示すために、公私の二分法を、公的領域、親密的領域、個的領域の三分法に変形させて、DVとは親密的領域における暴力と支配であり、それによって相手の個的領域を奪うことと捉えてみたい。そう整理することで、DVによって被害者が何を奪われているかがよくわかるし、DV加害者のタイプ化ができ、なぜ多くのDV加害者が犯罪者とみなされにくいのかが見えてくる。そして、「なぜ被害者は逃げないのか」という頻繁になされる問いにも、おのずから答えが見えてくる。

pp. 104

 しかし、DVとは、単にカッとなって親密な相手を殴る蹴るというものだけではない。DVにはさまざまな種類やレベルのものがあるが、その本質とは、恐怖によって親密な相手を支配することであり、親密な関係における「恐怖政治」と言ってもよいだろう(ただし自分がどれほどの恐怖を相手に与えているか意識していない加害者も多い)。身体的暴力は見えやすく、生命の危機にも直接かかわるため、DVの重篤さの指標にはなる。また客観的な証明や証拠が求められる司法においては、身体的暴力を重視するのも、ある程度しかたないかもしれない。しかし、DVの悪質さや、根深さは、加害者がどれだけ被害者の心理や行動を支配しているかで見たほうがよい。恐怖によって国民を操作する全体主義的な国家が、あからさまな暴力をいつも必要とするわけではないのと同じである。
 DVが単なる暴力ではなく、親密な相手を支配することだという捉え方は、欧米の専門家の間では当然のものだし、加害者更生プログラムなどにおいても基本となる理解である。支配的行動の詳細を理解するには、ドゥルース・モデルの「権力と支配の車輪」の図がたいへん役に立つ。この図の車輪の枠の部分には身体的暴力と性的暴力が、車輪のなかには、①強制・脅迫する、②威嚇する、③精神的暴力をふるう、④孤立させる、⑤矮小化・否認・責任転嫁をする、⑥子どもを利用する、⑦男性の特権をふりかざす、⑧経済的暴力をふるう、という八項目があげられ、それぞれ具体的な例があげられている。

pp. 107~108

 被害者はなぜ逃げないのかという問いがよくなされるが、それも個的領域を奪われているから、と言えるだろう。実際に逃げても連れ戻されたり、子どもを人質にされることもあるし、自分で考える自由や自信を奪われ、相手の言うことが正しい、自分が至らないせいだ、逃げてはいけない、と思い込まされていることもある。新しい一歩を踏み出すには、土台となる個的領域が不可欠である。

pp. 111

 個的領域は一人ではつくれない。加害者の監視・支配から解放される場所として、「一人でいられる」という要素を強調したが、人間は自分をそのまま承認してくれる誰かを(その場にはいなくても、少なくとも心のなかに)必要とする。「自分らしくいられる」人は、そういう誰かをすでにともっている。そのことに気づかずにすむくらい当たり前に誰かがいてくれるからこそ、自分らしくいられるのである。

pp. 112

 ほとんど知られていないが、実は二〇〇四年のDV防止法改正の際に、前文に「被害者の尊厳を確保し」という文言が加わり、さらに二〇一三年の改正では、第二条の「保護命令」の要件のなかに「心身に有害な影響を及ぼす言動」として精神的暴力や性的暴力も含まれることが明記されているようになった。

pp. 114

 法的に期待される合理的主体、理性的判断のできる自立した個人、自己と他者を尊重することができ、安定した人間関係を築ける市民をつくるためにも、養育環境は安全な場所でなければならない。
DVはそういう環境を奪い、社会の安定の基盤を掘り崩す。DV加害者を「正常な市民」として社会が許容しつづける限り、被害者のみならず、子どもや、次のパートナーの個的領域が奪われつづけていくこと、それは世代を超えて大きな社会的損失となることを知っておいてほしい。

pp. 115

加害者の更生も、容易ではないものの不可能ではないし、まず何よりもDVが社会的に許容されない犯罪行為であることを周知徹底していく必要がある。

pp. 116

3冊目:『DVにさらされる子どもたち』

 DVにさらされる子どもが受ける影響は、一様ではない。虐待に対する抵抗力は、子どもの能力や興味(運動、学業、芸術的才能など)の発達の度合い、信頼できる大人との親しい関係、自分を責めないでいられるかどうか、友人関係など、子どもの生活を取り巻く複数の要因によって決まる。暴力は通常、男の子に悪影響を及ぼすが、被害女性の息子が暴力をふるわない、慈しみ深い男性に成長することもある。どんなトラウマ体験であっても、それに対する子どもの抵抗力は、良い親あるいは親に代わる存在がまわりにいるかどうかにかかっている。DVにさらされる子どもの場合、母親との関係が鍵を握るケースがほとんどである。

pp. 53

 以上、加害者を親にもつ子どもが抱きがちな、問題の多い考え方をいくつかあげた。DVにさらされた少年が大人になって女性に暴力をふるう場合、そのおもな原因は父親から学習した態度にあることはこれまでの研究で示されている。したがってDVにさらされる子どもに働きかける場合、親から学びとった考え方を解きほぐし、分析する力をつけるように支援することが重要である。そうすることで、それらの考え方によって損なわれた母子関係やきょうだい関係を修復し、成人後に子ども自身がDVの加害者になることを防げるのである(第9章の関連する提言を参照)。

pp. 65

 子どもを巻き込んだ加害者の行動は、いくつかのカテゴリーに分類できる。その一つは、母親への報復として子どもを直接虐待するというものである。たとえば第2章でも述べたように、私たちが受けもったある温厚そうなクライアントは、妻に腹を立て、一〇代の娘のクローゼットを開けて卒業パーティ用ドレスをはさみでずたずたに切り刻んだことを打ち明けたが、その目的は母親を傷つけることだったと正直に話した。また、母親へのあてつけに、乳児にわざと腐ったミルクを飲ませたという衝撃的なケースもある。これらの行為は、他の加害者に比べれば身体的暴力の度合いは軽いものの、心理的には非常に深い傷を与えうるものである。このほか、クリスマスツリーをなぎ倒す、子どもがもらったばかりの誕生日プレゼントを壊す、結婚式や葬式といった重要な行事に子どもを行かせない、子どもに身体的暴行を加えるなど、加害者の行為は多岐にわたるが、その意図はすべて母親を虐待することにあった。

pp. 93~94

●暴力をふるわない親との強い絆 愛情をもって子育てをしようとする親との絆は、子どもが両親の対立や親の精神的病理による影響を克服し、元気に生活できるかどうかを予測するうえで、有力な手がかりであることが示されている。また離婚後の生活に子どもが適応できるかどうかは、親権家庭が「子どもを慈しみ、保護する環境」であるかどうかなど、「全般的な生活の質」にかかっている(三五三頁)。とくに深刻で長期にわたる精神的苦痛やトラウマを経験した子どもにとってはこうした条件が大切であり、世話をする親との強い絆が不可欠だとされる。心に傷を受けた子どもには、「苦痛を受け入れ、認め、間近で見守ってくれる」(六〇頁)親がそばにいることが必要である。子どもがDVに対処し、レジリエンスを高めるためには安心感がなくてはならず、母子間の強い絆の存在が重要な役割をはたす。したがって離婚後の子どもの回復を促進するためには、何よりも母子関係の回復を支援することが重要である。ある著名な離婚の研究者は、母親の意思に反して共同親権が強制された場合、母親と娘の健全な関係が損なわれる場合があるとしているが、私たちの経験によると、DV関連の離婚では母と娘だけでなく母と息子の関係でも同様である。
 DV加害者にさらされた後の母子間の絆を、強く健全なものにするために、次のことが必要である。(a)今は母親が自分を守ってくれると子どもが感じられること。(b)子どもが母親への尊敬の念を取り戻すこと。(c)周囲の社会環境が自分と母親との密接な結びつきを支援してくれると子どもが感じ、たとえ加害者にそのことを侮辱されてもはねのけられること。

pp. 136~137

 3.暴力を自ら選択した行為として認識する
 加害者は自分の行為の責任を引き受けなければならない。これは、自制心を失っていた、酔っていた、幼児期に虐待を受けた、ストレスがたまっていたなどという弁解をやめ、自分が故意に目的をもって暴力をふるった事実を受け入れることを意味する。

pp. 234

家族関係の力学のより高度な分析を可能にするためには、幅広い分野の専門家が、虐待に関連したトラウマや外傷性の絆に関する文献に通じることが必要である。私たちが現場で目にする誤りの多くは、これらの重要な概念についての理解が不十分であることに起因している。

pp. 246

 児童保護サービスと被害女性プログラムの協力によって明らかになった有効な原則に、子どもの安全を確保する最善の方法は、母親自身の安全を増大させることにあるというものがある。そのためには、母親が虐待の痛手から回復するのを助け、子どもをより効果的に守ることができるよう手助けし、母親を家族の安全と安心の実現を図るチームの一員として位置づけることが必要である。これらの努力が実を結ぶためには、専門家が被害女性に敬意をもって接することが大きな意味をもつ。専門家にありがちな相手を見下したような態度や、忍耐力の欠如は禁物である。また、さまざまな分野の専門家が力を結集し、被害女性のための子育て支援グループをつくることも有益であり、こうしたグループの効果はすでに研究で立証されている。被害女性プログラムと児童保護機関の協力によって、加害者からの暴力にさらされた子どもに対する効果的な対応が可能になるなか、母親を対象にした活動と子どもを対象にしたそれとの間に古くから存在する緊張関係は、いまだに消えていない。これは克服すべき課題である。また、ルーベンスタインとレーマンが提唱する母親と子どものための合同グループ活動もきわめて有効であり、導入が勧められる。
 さらに強調しておきたいのは、どの分野の専門家も、「DVにさらされた子ども」ではなく「加害者にさらされた子ども」という表現を使うべきだということである。これは、被害女性の子どもが被るトラウマティックな影響が、単に加害者による身体的暴力ではなく、加害者の行動のあらゆる側面に根ざしているという知見にもとづく。さらにこの表現には、子どもが抱える問題の原因は被害女性ではなく、加害者にあることを明白に示せるという利点もある。

pp. 248

そら / Sora

気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Penpaling, Music, etc

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  • Post last modified:May 21, 2026
  • Post category:Books