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『家族』
葉真中 顕 (著) , 文芸春秋, 2025年10月30日
気になった箇所の引用
「申し訳ありませんでした」 稔たちは、自由を奪われ、罵倒され、排泄を管理され、裸にさせられ、謝らされた。この一連のプロセスで剝ぎ取られたものは衣服だけではない。自分が無力で無価値な存在なのだと徹底的に思い知らされた。
P. 148
“あちら側” と “こちら側” 。小学校で同年代の子どもたちと接するようになって、鉄はこの世界には分断されたふたつの世界があることを理解するようになった。どうやら同級生の大半は、鉄のいる “こちら側” ではなく “あちら側” の世界で生まれ育っているらしい。
P. 198
“あちら側” の子は、父親に滅茶苦茶に殴られたことも、母親に一緒に死のうと言われたこともないらしい。 “あちら側” の家には大量のゴミと一緒に注射器が転がっていたりなどしないらしい。 “あちら側” の子は、たとえ片親でも毎日きちんと食事を与えてもらえるらしい。
それはつまり “あちら側” の大月の清潔な叔母の家を出て、 “こちら側” のQ団地のカビ臭い部屋に戻るということだ。
P. 206
鉄は自分の口角が上がるのを自覚した。
嬉しかった。
丸二年、 “あちら側” の家で過ごした日々は穏やかだった。叔母夫婦は直接血がつながっているわけでもない鉄に優しかった。なに不自由ない暮らしをさせてもらった。だが、惨めだった(※上ドット)。鉄は敏感に感じ取っていた。 “あちら側” の人々に特有の “こちら側” の人間への憐れみを。
もちろんわたしもです。わたしたち、みんな瑠璃ちゃんの言いなりでした。瑠璃ちゃんが笑えと言えば笑いました。怒れと言えば怒りました。殴れと言えば殴って、殺せと言えば殺しました。そして死ねといえば死んだんです。逆らおうとした人や逃げ出した人もいます。でも大抵最後はあきらめて瑠璃ちゃんの言うことを聞くようになりました。莫迦だからです。莫迦だから逆らい続けることも、逃げ切ることもできないんです。莫迦ばかりの閉じた世界で殺したり死んだりしていたから、誰にも気づかれなかったんです。
P. 215
「あの人はね、ただ罰したいだけなの」
P. 305 ~ 306
これはなんとなく、わかった。あの人というのは、きっと瑠璃子のことだ。
「あの人が本当に罰したいのは、きっと自分自身。望んだわけでもないのに生れてしまった自分を罰したいの。あなたは身代わりにされているだけ。あなたじゃなくてもいいの」
感想と思考
「グルーミング」。私が本書を読み進めているあいだじゅう、そして読了直後におよんでも、まっさきに頭に浮かんだのはこの言葉だった。手なずけられる過程で、支配されゆく過程で、いつしか狭い狭い視野でしか物事を判断することができなくなる(ように、される)。典型的なDVのさまであろう。しかし同時に、(これは本書があくまでも「フィクション」であるからこそなせた業なのであろうが)物語の終盤で「逃げる」という選択肢をどうにか選ぶことのできた登場人物のようすが描かれたことに、私はいくらかこの世界にまだのこされてはいる「希望」を見出したような気もした。
●被害者の準備
DV加害者の大部分は、被害女性との関係の初期には暴力をふるわないーーそれどころか魅力的で思いやり深くさえあるーーことは、DVに関する文献で広く認められており、私たちのクライアントのなかにも明確にみられる傾向である。だが、こうした愛情と思いやりに満ちた時期の後に、加害者は次第に言葉による虐待や避難、コントロールを激化させていくのが常である。こうした準備行動は近親姦に関する文献でも指摘され、「グルーミング」と呼ばれている。この時期、近親姦加害者は、被害者に特別ば注意を払ったり、プレゼントを買ってやったり、ふだんは禁じている楽しみを許可したりする。スターンとマイヤーによれば、「性的虐待が徐々に進行することは、通報をきわめて困難にしている」。とくに被害者である子どもが「賄賂や脅し、愛情などによって、秘密の共謀者にさせられている」場合はなおさらである(八三頁)。DVとの関連でいうと、子どもがそれ以前に加害者の暴力行為を目撃して加害者に恐怖心を抱いている場合、性的虐待に対する脆弱性が増大することもある。
『DVにさらされる子どもたち 新訳版 親としての加害者が家族機能に及ぼす影響』P. 115 ~ 116, ランディ・バンクロフト, ジェイ・G・シルバーマン (著), 金剛出版, 2022年1月15日
「この人がいないと、私は生きていかれなくなる」ーーいわゆる「ニコイチ」の状態を呈するとき、そこには「不健康な距離感」がうまれていることが多いのだろう。見捨てられることが怖いから、いまじぶんのの前にある寄りかかる対象が雲散霧消してしまうことが怖いから。ひとはときにその「ただ一人の相手」に身をゆだね、(たとえそれが傍から見ると異常なものであったとしても)必死で意に従おうとする。けれど無論、そのような関係性は「健康」なものではない。
そして応援団が不在であるため、子どもは何かストレスがあってもそれを自分一人で抱え込まなくてはなりません。外部の誰かに相談しようものなら、余計に大きなトラブルとなり、最終的に父や母から責められてしまいます。孤立した環境の中で、他人の痛みを背負う一方で、自分の痛みは誰も背負ってはくれません。こうした絶望的な状況が背景にあると理解すれば、もし誰かと繋がることができたときに、強烈な執着と依存の関係が生じてしまうことは想像に難しくないでしょう。
『その後の不自由』ではこの状態を「ニコイチ」と呼び、DVやモラハラといった危険な関係と表裏一体であると指摘しています。健康な人の持つ応援団の距離では、いつ離れていってしまうか不安になってしまいます。だからこそ密着を求め、そしてそれが満たされない場合に攻撃という手段を用いてしまうのです。他人に対しても応援団の距離ではなく、救世主になろうと献身的な犠牲を自ら引き受けようとします。しかし成人した世界においては、幼児と母との間にあった共生関係を維持することはできません。ニコイチの関係はいつか必ず破綻し、そしてまた絶望してしまうのです。
人間関係における「境界線(バウンダリー)」の大切さ:完全版|カウンセリングルーム9B
「自立とは、依存先を増やすこと」という言葉がある。人はひとりでは生きていけないーーことはもちろん言うまでもないけれど、だがしかしただ一人の相手だけを頼りにしていると、その人が目前から姿を消したときには「わたし」は総崩れになってしまう。味方はたくさんいるほうがよい。もちろん「ひとを頼る」ことができるようになるというのは容易いことではない(まして何らかの暴力性にさらされた経験をもつ人であればなおさら、であろう)が、その張り巡らせるネット(網)を少しずつ強固なものにすることができはじめたとき、人はきっとその支配と暴力の「沼」から身を引く勇気を取り戻すことができるのではないか、と私は思う。
そのためには「頼ることのできる社会」の構築が必要だ。考えてみると、物語の中で警察がてんで登場人物らの助けにならなかったことも、もしかすると「外部の人間を頼ること」の(現社会においての)困難さを暗に示したメタファーの意も込められていたのかもしれない。
困ってもSOSを出せない人がいる。なぜ支援があるのに助けを求められないのだろう。結生は言う。「頼る、という選択肢は、自分を迎えてくれる “社会” があると思えて初めて生まれる」
『あっち側の彼女、こっち側の私 ーー 性的虐待、非行、薬物、そして少年院をへて』 P. 223, 結生・小坂綾子 (著), 朝日新聞出版, 2020年10月30日
物語にはラストシーンがあるが、私自身の問いはこの先もなお続く。「頼ることのできる社会」とはすなわちどのようなものである必要があるのか、今後も探究しつづけたい。
