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最近私は『自閉症スペクトラムの少女が大人になるまで』(*1)という本を読み始めた。……のだけれど。読んでいるなかでどうも何かが、自分の中ですとんと腑に落ちない感覚がずっとあった。なにもこの本のすべてに共感できないと言いたいわけではない。書かれていることは至極真っ当で、「あ、これって私と同じかな」なんて思える箇所もたくさんある(ちなみに私自身、AS傾向持ちの当事者だ)。それなのに。
どうしてなんだろう、この少しごつりとした違和感の正体はいったい何なのだろう、と考えていたところでふと、私の頭にある考えがよぎった。ああもしかしてこの本に登場する「少女」たちはみな、乗り越えよう、強くなろう、うまくやれるようになろう、という願いのもとで成長しようとしているからなのではないか、と。あるいは仮にそれが「彼女たち自身の」想いではなかったのだとしても、そうある姿を彼女たちの道の先に、用意するべく周囲の大人たちがはたらきかけようとしているからなのではないか、と。必ずしもいつもつねに、「うまくやれるようになること」「あの子たちのように過ごすことが、できるようになること」が彼女たちのいちばんの幸せになるとは限らないはずなのに……と、私は思うのだけれど。
記憶に残っている文章がある。宮地尚子著『傷を愛せるか』に収録されているうちの一つ「弱さを抱えたままの強さ」という章に、私の好きな一節がある。
では「悪質は良貨を駆逐」してしまうのだろうか?弱肉強食のルールに従って生きていくしかないのだろうか?そうではないと思う。弱さを抱えたまま生きていける世界を求めている人も多い。弱さそのものを尊いと思う人、愛しいと感じている人も多い。それもまた人間のもつ本性の一つだと思う。そうでなければ、弱き者はすでにすべて淘汰されていたはずだ。希望をなくす必要はない。
宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』P119~120, ちくま文庫, 2022年9月10日
たぶん、この映画もまた、弱いまま強くある可能性を語っているのだと思う。勝つために武装して立ち向かうのではなく、自分の権利を守るために、「鎧」を重ねて防御するのでもない。「スタンドアップ」したいわけではなく、ただ自分らしくありたいだけ。闘いたくなどないけれど、自分の居場所や尊厳が奪われたくないだけ。「女を捨てる」ことなく同時に闘いつづけることは、ヴァルネラビリティを抱える自分を愛し、残しつづけることでもある。
べつに、根こそぎ変えたりなんてしなくてもいいはずなのだ。もちろん今の自分よりももっと、らくに呼吸ができるように、心の摩耗がゆるやかになるように……と彼女たちが願うことは当然のことではあるだろうけれど。それでもその最適解がいつも「乗り越える」となることには私は、なんだか違うんじゃないか、と思う。そのあなたの「もろさ」でありまた「繊細さ」であり、を抱えたままでもそっと笑顔になることのできる場所があったっていいんじゃないだろうか、いやそもそもあるべきなのではないだろうか、と私は思わずにはいられないのだ。
この本を書かれた方たちのあいだ、つまり「英語」を基盤にしてものごとを考えていらっしゃる方々のあいだでは、どのような思考体系がなされているのかを私は知らない。「語彙のないところにその概念は洗練されない」なんていう考え方があったりもするように、もしかすると英語という言語にはそもそも「弱さを抱えたままでも進む」という捉え方がなじんで交ざっているわけではないのかもしれない(私はそのあたりのことにはまだまだ無知でしかないから、たんに私が知らないだけ、持っている語彙が少ないだけなのかもしれないけれど)。
臨床教育において、マニュアルから出発する他に、かつてフランスで主流だったという教育法がある。それは、ある患者Aの診察において、Aに似ている患者A’を直観的に記憶をたぐって選びだし、それから後で、どこが似ているかを考えてゆくやり方である。医師になった時から始めて直観的・全体的印象が「マルセル」「マルセル’」「ジョルジュ」「ジョルジュ’」「マルセル’+ジョルジュ’」というふうに蓄積されてゆき、時に応じてそれを分析するという行き方である。実際に私たちが経験を積む方法はこちらではないだろうか。これは、人の顔を「中村君に似た人」「孝子叔母に似た人」としてまず記憶する日常体験と同じである。この教育は現在語られないが、マニュアル的教育と同じ重要性があり、実際、症例検討会におけるシニアは、多く、この方法によって助言をしているのではないだろうか。それは、スキルの伝達においては、学説・文献の引用よりも大きく貢献しているのではないだろうか。なお、「スキル」に対応する語がドイツ語に(フランス語にも)見いだせないのはバリンとの指摘するとおりである(『スリルと退行』)。ことばのないところ、概念は洗練されない。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』P198~199, みすず書房, 2004年4月1日
でも、と私は思う。分からないけれど。何がいちばんの答えなのかなんて簡単に結論づけられるものではないから私にも分からないことばかりだけれど、それでもその「感じやすさ」をとりたてて隠すことをしないまででも、生きていくことだって「らしい」道なのではないのかな、と。
理想論なのかもしれない。だけど私はそんな世界が、そんな未来が存在していたら、きっとすてきだろうな、と思う。
(*1) シャナ・ニコルズ、ジーナ・M・モラヴチク、サマラ・P・テーテンバウム 著『自閉症スペクトラムの少女が大人になるまで 親と専門家が知っておくべきこと』辻井正次・稲垣由子 監修, テーラー幸恵 訳, 東京書籍, 2010年6月2日