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『傷を愛せるか 増補新版』
宮地尚子 著, ちくま文庫, 2022年9月10日
感想と思考
「ちゃんと見ているよ、なにもできないけど(1)」。傷ついた人たちーーこころに何らかの傷を抱える人たちにとって、この言葉がどれほど心強いものであるかは計り知れない。他者とのかかわりの中で傷つき、それゆえに「人を信じる」ということについてどこか足がすくむような感覚をもっている(であろう)彼らは、それでもいつかはやはりもう一度、「社会」という場に、人間の渦の中に、どうにか戻ってゆくことになる。
だからこそその過程で彼らを確かに支えるものといえば「自分の幸せを願っていてくれる、『誰か』のまなざし」であるのだと、私は思う。この本の筆者も作中、以下のように述べている部分がある。
「そのマインドコントロールの罠と、長いあいだ追いやられてきた孤独の闇から抜け出すには、自分の幸せを祈ってくれる「だれか」がかならず必要である。(2)」
本書『傷を愛せるか』は、臨床を行う医師であり、またトラウマやジェンダーなどの分野において研究を続ける専門家でもある筆者が、さまざまなものと長年むきあう中で溜めてきた想いを精緻に綴ったエッセイ集である。その「むきあう対象」とは各章によって多種多様であるが(例えば患者さん・クライエントであったり、旅の道中で育まれた筆者自身の感情であったり。あとは過去を回想しつつその揺らめく記憶に身をゆだね、そこからさらに展開させた思考とむきあっている……なんていう章もある)、その根底には常にぶれない「何か」がある。この「何か」の正体は一体なんなのだろう、と私はずっと悶々としていたのだけれど、最終章まで辿り着いたときにやっと私は「ああこれだったのか」とすっと霧が晴れたような境地にいたった。この本の最後の最後で筆者は、次のように記している。
くりかえそう。
傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。
傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。
傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。(3)
数ある章立ての中のひとつ「弱さを抱えたままの強さ」と題された部分をはじめ、本書のなかでも筆者は再三述べているけれど「どれだけ「鎧」を重ねて過剰防衛をおこなっても、人間は、生物は、社会はヴァルネラビリティから逃れられはしない(4)」(ちなみに「ヴァルネラビリティ」(vulnerability)とは「弱さ」「脆弱性」と訳されることがあるいっぽうで、「攻撃誘発性」とも訳されることのある英単語だ。この差異はどこからきているのだろう……と筆者は疑問を呈するが、しかし筆者はまたとある映画を通して、その答えの緒となるものを手繰り寄せていく)。なのだけれど、逃れられはやはりしないのだけれど、それでも人は生きていかなければならない。ならばせめて、その「傷」を曲がりなりにも愛する勇気を持ってみることもまた、崇高な生き方なのではないだろうか……という考え方が、私が筆者から・そして本書から受け取ったメッセージだ。
傷を愛することはむずかしい。傷は醜い。傷はみじめである。直視できなくてもいい。ときには目を背け、見えないふりをしてもいい。隠してもいい。大人になったディノは映像ジャーナリストとして、傷つけられた世界の風景を「目撃」し、記録しつづけているが、だれもがその強さをもつ必要はない。ただ、傷をなかったことには、しないでいい。(4)
傷を抱える本人が、そしてその彼らへまなざしをむける周囲の人間たちがこのことに気がついたとき。暗闇の中で停止していた時間は、再び静かに動き出す。そんな鋭くもあたたかい想いを筆者は本書をとおしてそっと、私たち読者に手渡してくれる。
(1) 宮地尚子. (2022)傷を愛せるか 増補新版. 筑摩書房, pp. 15
(2) 同上, pp. 53
(3) 同上, pp. 226~227
(4) 同上, pp.224