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『急に具合が悪くなる』
宮野真生子・磯野真穂 著, 晶文社, 2019年9月25日
気になった箇所の引用
今ある自分の人生とはまったく別の一生を思い浮かべてみる。私が旅に出る醍醐味はここに尽きます。今の人生に不満がある、というわけではありません。むしろ満足している。けれどもそれでも、自分の人生がまったく別のものであった可能性を考えてみることは、私が自分の人生というものを引き受ける上で、大切な思考の手がかりである気がします。ただし、そこで考えられる可能性は、磯野さんのお手紙にあったような確率を問う「可能性」とは似たもののようでまったく違うものです。
pp. 23~24
切り株につまずいて怪我をしたのを妖術のせいにできるのは、いつも通り切り株を踏まないよう注意深く歩いていたのに踏んで怪我をし、いつもは化膿せずに治る怪我がなぜか治らないという場合です。壺が壊れたというのも、単に壊れただけでなく、いつも通りのやり方で作っていたのに今回は壊れてしまったという状況が必要です。
pp. 103
もうおわかりだと思いますが、不運の原因に怠慢や過失、非倫理的な行為が見られる場合、その不運を妖術のせいにすることはできません。それは個人の責任です。妖術は、しかるべき努力や準備をしてもなぜか起こってしまった不運の説明のために使われるのです。
これはうすうす気づいていたのですが、磯野さんは私に病気の話をさせるのがとても上手です。しかも、それがまったく嫌な気分じゃなくて、私は磯野さんに話をすることで、すごくラクになっているんですよね。ただですね、よくよく見ると、たしかに磯野さんは「どのあたりが痛いの?」とか私の身体に関することを質問しつつ、そして私もそれに答えつつ、気がつくと磯野真穂と宮野真生子は苗字と名前が一字ずつかぶっているとか、五代前の先祖は親戚だったに違いないとか、全然違う話をしているわけです。
pp. 138~141
まったく整理されていない会話です。ところが、その会話にまったく一貫性がないのかというとそうではなくて、全体として見た場合、なんだか一つの心地良いまとまった会話になっています。そこでの会話は、相手が何をしているのか想像し、今自分の目の前にあるものに気をとられ、思いつき、連想し、色んな要素が入り交じって、つらなってゆきます。でもそれが心地良い話題の転換になり、話が途切れることなく続いてゆく。余分なものは、余計なものじゃなくて、会話の広がる余地を作る。この遊びの部分が私と磯野さんの間にあるからこそ、私たちは自由に言葉を紡ぎ、患者という役割だけに囚われずに話すことができるのではないでしょうか。
こういう会話って、全然見栄えはよくないし、気づくと初めとはまったく違う話をしていただくするんだけど、なんだか安心して、楽しかったなぁと満足します。そして、そこでちょっとだけ互いのことを知ったような気がします。
たぶんそれは話した中身で相手を知るというよりも(もちろん会話のなかの情報も大事だけど)、そこにある気遣いの形や話題のチョイス、言葉の特徴といった形を通してわかってくるものじゃないでしょうか。だから、話の中身も大切だけど、ある程度の時間、だらっと喋っていることも必要なのだと思います。私たちはそうやって、相手を知り、関係を深めてゆく。こうした関係のなかにいる自分って、書き言葉で切り取られたかっこいい私とはまったく違うものです。
ちなみに「どのあたりが痛いの?」という磯野さんからの問いかけのあとには、私が「旅行に行きたい」とグチる言葉が続いていました。「そりゃ海に行くとも言われるよ」と磯野さんになだめられつつ、「でも東京にはくるんでしょ」と仕事の話が入ったりして、私は少しずつ一〇〇パーセント患者であることと、患者度〇パーセントのあいだで「ほどほどの患者」として立つポジションを模索してゆきます。
そして、気づくと、「まあ、調子の悪い面はあっても助けてもらいながらやればいいんだし」といい感じの(いい加減な?)患者モードになっています。間違いなく話し始めたときの私(病気のせいで旅行に行けない、理不尽だと怒るモード)とは患者としてのポジションが変わっているわけです。うまく病気を受け入れている、とも言えます。
けれど、そんなふうにどこで変わったのか、というとそうじゃない。ダラダラといろんな話をしているうちに「ほどほどの患者」ポジションに落ち着いていたんですよね。細かな話題の転換、変化を重ねながら、気づくと何ごとかを受け入れ、すっかり変わってしまっている。
でも「自分」ってそういうものなんじゃないかと思います。この書簡で私はこれまで、いまに身を委ね、偶然を掴み、毅然と決断をする自分のあり方を書いてきました。それは、ある意味でとてもしっかりした自分で、劇的な変化へダイブするというイメージだったかと思います。けれど変化って、そんな劇的なものではなく、もっとぬるっとしていて気づいたら変わっているようなものなのかもしれません。自分という存在もそんな確かなものではなくて、相手との関係のなかでその時々に変わり、そのつど気づかれるような、もっと曖昧なものじゃないのかな。
日常生活というのは、本来、いろいろなフェーズが混じり合っていて、そのまだら模様の中をあっちに行ったりこっちに行ったりして、ずるずる過ぎてゆくものですよね。ところが、病気をもっている人の日常はどうしても「患者」というフェーズからまだら模様が整理されてしまう。その結果、私とパートナーが話すべきことを探って身動きが取れなくなったように、役割と役割でぶつかって、ただ黙る。でも、かっこよく生きることのできない(かっこよく生きる必要もないのですが)ガン患者の日常にとって大切なのは、このずるずるであり、ぬるっとした変化なのだろうと思います。不運と不幸の線引きが上手にできず、病であることと日常を生きることがまだら模様になった生活のなかで、「ほどほどの患者」のポジションを探ること、そんなふうに変わってゆけることが転換や飛躍なんじゃないのかなと思いながら、モルヒネ摂取生活に少しずつ慣れてきました。
「約束」を「信頼」という観点から論じた哲学者に和辻哲郎がいまの大学時代の同級生で、九鬼が今この瞬間の偶然性を重視したのに対し、安定した日常の連続性を他者との倫理的関係の基本と考えた人です。その和辻は、私たちが生きていくうえで最も重要な倫理的な基礎は「信頼」にあると言います。彼によれば、信頼とは何か特別な人との関係に宿るものではなく、日常的な、私たちの社会を支える根本にあります。
たとえば、電車に乗ることをとっても信頼がなければ不可能です。よく考えると電車というのは見知らぬ人とけっこうな時間を密室で一緒にいることで、隣の人が何を考えているのかも、この次の瞬間何をしようとしているのかもわかりません。ですが、私たちは電車を戦場だと思って乗り込みませんし、見知らぬ人がいるからと構えたりはしません。なぜなら、そこにいる人は自分も含め同じ「乗客」という役割を担い、「乗客」という関係に沿って互いに関わるからです(突然大声で叫ばない、知らない人に話しかけないなど)。
磯野さんの前便の言葉を借りれば、その場の空間に基づいた人間関係の暗黙のルールがそこにはあり、そのルールにみんな従うだろうと私たちは互いを「信頼」し、見ず知らずの人と密室に閉じ込められているという状況でも不安にならずにそこにいることができます。見知らぬ他者と流れる時間のなかで共に生きていくためには、人間関係を安定させるルールが必要で、人びとがそれを守ること。だからこそ和辻は、私たちの日常は、なによりも他者との共同性を生きることであり、個人性は、この共同性との関わりから現れてくるものだと考えます。
まずもって人間関係を守ろうとするルールがあること。ともあれ私たちは人間関係のルールを頼りにして、怖い他者から自分を守り、また、他者に対して自分は怖くない存在だと提示し、共に社会を作ってゆくことが可能になっているわけです。それは和辻の言うように人間関係とそれを形作るルール(和辻の言い方だと倫理)への信頼があって始めて成り立つものです。和辻の議論が面白いのは、この先です。彼は、このルールへの信頼とは結局のところ、何をしていることなのだろうかともう一段掘り下げようとします。
いわく、信頼とは、「わからないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」
たしかに、いくら人間関係の暗黙のルールがあるといっても、それを人びとが守るかどうかはわかりません。人の心はわからない。次の瞬間にむしゃくしゃして暴れ出す可能性だってあります。しかし、そんなはずはないだろうと、未来の未知性を引きを受けて、自らはルールに則った行動をおこなう。約束とは、こうしたわからない未来を前に、時間を超えて、未来を現実と一致させることができる能力を持っていると言えるとき、人は「約束する能力」を有する人になり(「来週の土曜日が締切ですね、大丈夫です。いけます」)、それは信頼に値する人として周りに扱われることになるというわけです。しかし一方で、未来はあくまでもわからないものであり(大丈夫と言った人が事故に遭う可能性だってある)、人は時間を超えることはできませんから、現時点で相手を信じて未来の約束を結ぶということは、「冒険」であり「賭け」でもあります。
pp. 160~163
最もわかりやすいのは徒歩旅行と輸送の例でしょう。インゴルドは、徒歩旅行を最終目的が決まっておらず、歩みを進めるその度に、世界を知覚し、それと親密に関わりながら通り抜ける運動であると述べます。その結果、そこには運動の伴ったライン、踏み跡が刻まれます。ところがこれが輸送に変わった瞬間、この運動は奪われると彼は述べるのです。輸送の目的は、出発地点と到着地点という点を、直線で連結し、荷物に変化を加えないよう横断させる行為です。輸送と徒歩旅行との違いをインゴルドは次のように述べます。
輸送とは、機械的手段を使用するかしないかではなく、徒歩旅行にみられる移動と知覚との親密なつながりの消失によって区別される。輸送される旅人は乗客となり、自分では動かず、場所から場所へと動かされる。その通過のあいだに彼に近づいてくる風景や音や感覚は、彼を運ぶ動きに全く関係がない。
インゴルドが言うように、徒歩での移動も輸送の装いを取り得ます。たとえば、Google マップを見ながら目的地まで移動するときと、空き時間に街をただブラブラと歩く移動には決定的な違いがあります。前者の場合、私は出発点と目的地を横断します。移動の途中に私とともに在るはずの街並みは私と親密に交わることもなく背景に退き、私はただ一直線に目的地を目指します。後者の場合、私は街並みの空気や彩りを感じながら、そこを通り抜け、その先に何が在るのだろうという、ちょっとした冒険の気分に胸を高鳴らせながら、私を取り巻く街並みとともにラインを描きます。
pp. 183~184
たとえば、私はガン患者当事者なのだろうけれど、私は患者であることを一〇〇パーセント引き受けられていないし、それを引き受けることが大切だとも思えない。そんな当事者に勝手にラベリングされて落とし込まれたくない、ということはここまでの書簡でも書いてきたことです。うまく病者であることを引き受け切れず、その場の人たちとの会話のなかでとまどいながら、自分の生き方を患者と家族のあいだ、あるいは病者と友人のあいだで手探りしている。それが、いろんな人が生きているということの実態じゃないのでしょうか。
pp. 196
もし運命というものがあるのなら、それは生きる過程で降りかかるよくわからない現象を引き受け、連結器と化することに抵抗をしながら、その中で出会う人々と誠実に向き合い、共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気であるような気がしています。そしてその中でその人が運命に見出す意味付けが、打算ではなく、山桜を植える人々のような遠い未来につながるラインの中に刻まれた時、その意味付けは、webs of significance と呼ぶにふさわしいものになるのではないでしょうか。
pp. 215
いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。
pp. 224
磯野さんであれば、この引き受けを「ラインを引く」と言い、「踏み跡を刻む」と表すでしょう。私が偶然性を引きを受けて生きることの意味を哲学的に問い、語り続けてきたのは、まさに私が偶然から引かれるラインと踏み跡を刻む自分の大切さを伝えたいためでした。
そこには、出会いを引き受ける、ライン引こうと世界へと踏み出す「開かれた」自分がいると思います。始まりはそこにやって来る。そして、私はその始まりを「踏み跡」として刻み、自分に取り返し、引き受け生きていく。この連綿と続くつながりのなかにいることがラインを引くことであり、網の目のように(webs!)世界が続いてゆく。
九鬼は『偶然性の問題』の結論で、偶然を生きるとは「出会う」ことであり、その出会いは、「到るところに間主体性を開示することによって根源的社会性を構成する」と語っています。
pp. 230
この「出会い」とは、いったい何なのでしょう。何と出会うのでしょうか。当たり前ですが、出会うためには、私とあなたという異なる二人がいなければなりません。でも、そこで出会う私もあなたも、この偶然の出会いによって変わってしまった二人の居はずです。いま説明したように、偶然を引き受けるときに私たちは自分という存在を発見するのだから。そこで自分が産まれてくるのだから。だとすると、私は、出会った他者を通じて、自己を生み出すのです。自分というと、出来上がった存在を思い浮かべますが、そうやって、選びとり、見出される、産まれてくる自分は一人で可能になったものじゃない。出会う自己と他者は、完成した自分をもっていない。
