『五月の雨』を観て

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Home - 五月の雨
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家庭内で起こる静かな暴力。第三者に透明化される被害。そして離婚後も続く支配。それは、まるで“見えない鎖”のように親子を追い詰めていく。果たしてこの鎖を断ち切る方法はあるのか。
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感想と、考えたこと

2026-5 鑑賞

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2026年5月、NPO法人 S.(検索避けのためイニシャル) さんの講座に参加した際に講座内で教えていただき存在を知った映画。〇〇(地名)にての上映開始初日に、私は観に行った。会場内もほぼ全席が埋まっているようすであり、関心を持つ人たちの数にあらためて驚くとともにどこか心強い気持ちにもなった。

「共同親権」が施行されてからはや2か月。上映後のゲストトーク内で弁護士さんが仰っていた「加害者側のカードを、またひとつ増やしてしまった」という言葉が特に印象に残った。講座内でも学んだことであるのだけれど、DVの本質とは「ふるわれた暴力そのもの」が真の問題点なのではなく(もちろんそれ自体も大きな問題であるが)、「相手への支配性・特権意識」などに核となる問題点がある。それがDVの本質であるのに、「被害者側が『単独親権にしてほしい』と折れずに最後まで主張し続けなければならない法案」とはいったい、誰のために可決された法案であるのか。結局は離婚をさせたくない(離婚のハードルを実質上げさせたい)、家父長制を存続させたい、などの思惑が根底には流れているのではないのか、と。法案に対する厳しい意見も並んだが、それらは至極真っ当なものである、と少なくとも私は感じた。

法廷などの公の場で理路整然と話す側は、(どちらかというと)加害者側であることが多く、反対に比較的感情的になってしまったり、時系列に話せなかったりする側は被害者側であることが多い、という経験則もあるそうだ(S.さんの講義内で仰っていた内容による)。このような事情を社会は理解しておくとともに、「共同親権」を(加害者側、とされている側のみの意向をもってして)安易に許容してしまうことのない社会である必要がある、と私は思った。

力が相対的に弱くなるのは、「子ども」「女性」などであることが多い。特に子どもに関しては、「子どもの権利」というものは確かに存在しているはずなのに、例えば両親の共同親権の板挟みになり自身の意思を充分に貫き通すことが困難になる状況も今後、生まれるかもしれない。

映画鑑賞中、「もしも私の親の離婚時に共同親権の法案がすでに施行されていたら、私の両親は離婚できなかったかもしれない」と思うと寒気がした。親権をどちらが取るかで最後まで揉めていた、という話を以前聞いたことがあるからだ。ただ、共同親権は何も「今後離婚する人たち」のみに限った問題なのではなく、既に離婚済みの人たちにも関わる問題であるようだ。

解像度の高い理解を私たち一人ひとりがすることのできるよう努めること。社会の民意、意識を巻き込み底上げすること。

一つひとつの地道な取り組みが、子どもたち、そして被害者の立場にある人たちの命や今後の生活を守ってゆくことに繋がるのだと私は思う。

そら / Sora

気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Penpaling, Music, etc

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